もうすぐセミリタイア!すべては自己責任、自己選択、そして生きるとは探求、修行。
今月末にセミリタイアする40代男性です。
退職することを、職場の人たちが知るようになりました。
職場の人たちには、感謝しかないし、不満があるわけではないので、「なんで辞めるのか」、「何が嫌だったのか」とよく聞かれるけど、うまく答えられない。
そして、「次の職場は決まっているの」と必ず聞かれるけど、職場はまじめな人たちの集まりなので、あまりに落差が大きすぎるように感じてしまって、セミリタイアするとか、20年近く前から決めていた、とは言いにくい。
不満があるから辞めるわけではない
僕は、基本的に不満というものをあまり持たない方です。
不満とは、「甘え」であって、「誰かに何かをしてほしいという欲求」のように感じる。
若い頃は、親に不満を言ったり、入社した会社の愚痴を友人に言ったりしてきた。
それが、徐々にすべては自己責任、自分の選択、だと考えるようになった。
会社に不満があって、嫌なら辞めればいいだけのことで、会社を選んだのは自分であって、強制的に働かされているわけではないのだから。
そうして、新卒で入社した会社は1年で辞めた。
転職が決まって、旅に出た。
インドでは、旅をして3年住んでいるというドイツ人と話しをしたり、サドゥーというあらゆる物質的・世俗的所有を放棄してヨーガを実践したり、放浪する修行者がいることを知った。
日本に帰って仕事が始まってからも考えつづけた。
捨てるということがひらめいて
「捨てる」ということの重要性に気づきだした。
実際に、家のなかにあるものを捨てだした。
「ミニマリズム」ということをいつも考えていると、新たに物を買うことはなくなる。
物が減り、買うことなく、興味もなくなると、自分にとって本当に大事なものが何かと気づきやすくなる。
僕の場合は、「穏やかな時間の流れ」の中に幸せをより感じることができるようになった。
そして、感謝するということが、自分の幸せに直結するということに気づいた。
捨てるという過程では、「不満」も捨ててきたように思う。
少し大げさだけど、「人は幸せでなければならない」と考えている。あるいは、「幸せを追求しなければならない」と。
「他者」や「社会」に何かを求めるから不満が出るのであって、自分の幸せにフォーカスして、他を捨てるならば、不満はなくなるのではないかと思う。
捨てるのは、誰かに「何かをしてもらいたいという欲求」のこと。
少し話が飛びますが、仏教では、大乗仏教と上座部仏教という区分があります。
「大乗仏教(日本の仏教)」は、本来は「悟り」を求めていくものであったけど、時代が下っていくうちに、釈迦の存在そのものが神格化され、「信仰の心」が重視されていくようになった。
一方、「上座部仏教」は基本的に自己完結的で、個人が修行し、「悟り」を開くことを目的としている。
僕は、「上座部仏教」の「基本的に自己完結的で、個人が修行し」、というところに興味を持っていろいろと本を読んできました。
それが、「自分の幸せにフォーカスする」という考え方に影響していると思っています。
誰かの救いになれるなら嬉しい
退職することが知られるようになって、僕より少し若い、別の所属の人と話をしました。
人間関係が酷くて苦しんでいると、少し泣きながら話していた。
なんとかしてあげたいけど、もう何もできない。
でも、僕がこれからしようとしている海外移住のことを伝えた。
「自分だけずるい」と言われた。
その言葉に笑いながら、「貯蓄が大事で、勇気と強い意志が必要で、そして人生は一度切りだ」と伝えた。
すると、目を輝かせて「自分もやりたい」と言ってくれた。
もしそれが救いになるなら嬉しい。
すべては自己責任、自己選択
人はいつか必ず死ぬものですし、お金も地位も名誉も何も持っていけない。
不満を持つなんて時間がもったいないし、いかに楽しく、幸せに生きるかということが自分にとっては、やはり重要です。
「誰か」や「社会」が決めた価値観を盲信するのではなく、困難なことも多いと思うけど、自分で見て、考えて、ときに奮闘しながら生きていきたい。
すべては自己責任、自己選択、そして生きるとは探求、修行なのかなと考えています。
そして、これからセミリタイア生活に入りますが、このブログを書くことで、誰か一人にでも刺さって、道を開くきっかけになるなら嬉しいと思う。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
それでは。