彼女を置いてきぼりにしてでも掴みたかったもの

今月末にセミリタイアする40代男性です。

セミリタイアを目指すきっかけとなった経験について書いています。

人生を乗っ取られてしまわないために

小さい子どものころは、親の庇護のもと、何も考えずに生きてこられる。

子どもは何も知らず、なんにでもなれると感じていられるから、将来の夢は、パイロットや医者、芸能人だとか言う。

でも思春期になると、自分が何者なのかと考え出して、いや何者でもないと気づきだして、苦悩するのだと思う。

僕自身も悩んでいたから、問題を解決しようとして心理学系の本などをよく読んでいた。

よくわからないままに、ジグムント・フロイトなんかを。

この世界は素晴らしいと感じていたけど、決して生きやすい場所ではなかった。

管理社会だと言われるこの社会に適応するための慣習や同一性、考え方など、自分の意思や好き嫌いとは関係なく強制される。

それが教育というものだと後で知った。

前の記事で、大学のとき、カール・マルクス資本論を教えてくれる教授が、「教育とは洗脳にほかならない」と学生に議論をふっかけようとしていた光景を見ておもしろいな、と感じたことを書いた。

社会がどのようなものかということに興味はあるけど、日本の教育がいいとか良くないとか、洗脳かどうかという意見は持っていない。
よく知らない。

欧米は個人主義の国だから、個性を縛るような日本の教育とは違うと聞いても、どっちがいいかなんてわからない。

ただ、自分の視点を持たないと、人生を乗っ取られてしまう、と若いころから、そんなことを直感していたかもしれない。

乗っ取られないためには、「自分が何者で」、「何が好きで」、「どうありたいのか」を知らないといけない。そのためには、自分と向き合わないといけない。

自分と向き合ういい方法は、旅だと考えている。できればひとり旅がいいと思う。

彼女を置いてきぼりにしてでも掴みたかったもの

僕は、新卒で就職した会社を1年で辞め、公務員試験の勉強をしていた。

採用試験に受かったら、3ヶ月半ほどの東南アジア放浪のひとり旅に出ようと計画をしながら。

20代の中頃で、公務員になるというだいたいの目処が立っていてもなお、自分の人生を見つけられずにいた。

「自分探しの旅」なんていう自意識過剰はなくなっていたけど、旅に何かを求めていた。

当時、付き合っていた彼女がいて、その彼女は一緒に行くと言い張って、バックパッカー系の本を読み込んでいたようだけど、僕はどうにかして阻止しようと必死だった。

どうしても来るというので、「2週間は一緒に来てもいいけど、それ以降はひとり旅するから日本に帰ってね。」というと、彼女は、「何言ってんの。そんなことありえない。」と。

「わかった。じゃあ1ヶ月だけね。」と言っても、まったくとりあってくれないので、困っていた。

彼女と一緒に放浪の旅をする、なんて「楽しくて最高〜」、という常識的感覚は持っている。

でも、それ以上に「自分の人生を生きるために何かを掴まないといけない」、という思いの方がはるかに強く、切実だった。

ぬるま湯ではなく、寂しさ、辛さがあっても、より厳しい環境に身を置きたかった。だから、ひとり旅にこだわっていた。

結局、愛想をつかしたことだけが原因ではないと思うけど、彼女は旅行の数ヶ月前に、別の男のところに行って、僕たちは別れた。

そのあとのひとり旅の経験が、自分の原点になっていると今も感じているので、すべては良かったのだと思う。

彼女を置いてきぼりにしてでも掴みたかったもの、はなんだったのか。

自分の人生を生きるということ。

それが、経済的自由を目指して努力し、FIRE、セミリタイアにつながっていることは間違いないと思う。

だけど、それだけではない。

「幸せ」とはなんなのか、「生きる」とはなんなのか、といったもっと根本的なことだったのかもしれない。

今となっては、それを追求しようといった強い思いはあまりないけど、セミリタイアしたこの先の人生を生きることで自然と見えてくるのかもしれないと思う。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

それでは。